初嶋大神宮

私の生まれ故郷尼崎市築地は、古くから漁業で栄え、阪神大震災により大きく様変わりしたとはいえ、未だに昔ながらの風情を保つ静かな城下町です。町の中心にある大きな鳥居が目印の初嶋大神宮は、子供の頃境内で、鬼ゴッコや隠れんぼをするには、絶好の遊び場でした。その頃初嶋大神宮では、伊勢神宮で売っているのと同じ御守りが、定価の二割引きで買えるというのがセールスポイントでしたが、これは若中同士が(この地域では氏子のことをワカナカと呼びます)冗談で言っていたことなので、実際に二割引きで売っていたかどうか分かりません。初嶋大神宮では毎年敬老の日とその前日に、築地だんじり祭りが行われます。二鬼の向かいあった地車(だんじり)をぶつけ合って決闘する(山合わせ神事)は迫力満点で、その豪快さ、尼崎型地車の造形美の華麗さを語ると、およそ十万字ぐらいの長文になってしまうので、ここでは割愛させていただきます。子供のころにお祭りに参加していた時、同じ町の地車を押すおっちゃんからある興味深いことを聞きました。「おい坊主、知っとるか?東京に築地いうところあるやろ。あそこはなあ、ワシらの住むこの築地を真似して造ったんやで」というのです。おっちゃん曰く、江戸時代に徳川幕府が江戸湾に面した土地に、魚市場を造ろうと考え、その時にモデルにしたのが摂津の国の築地で、その時大工として隣の佃村から多くの人々が江戸に移り住んだ所が、現在の佃島であるとのこと。私はこの説を三十歳ぐらいまで、信じていました。インターネットで何でも調べられるようになった十年程前に、築地の名前の由来について調べてみました。どうもデタラメらしいというのが分かり、少しガッカリしました。大阪の佃村の人々が、大工としてかどうか分かりませんが、江戸に移り住んだ所が佃島になったというのは本当らしいのですが(佃煮の語源でもある)。江戸の築地の名前の由来は、新しく築いた土地だから、築地という説と、元々海に面した土地を昔は、築地と呼ぶ風習があったという説、このどちらかが有力です。しかし私は郷土の誇りにかけて、わずかな可能性でも「築地の由来は我が尼崎にあり」と思っていたいです。私一人が心の中で思っている分には、誰も傷つかないでしょうし。
追伸 豊洲移転問題で揺れる築地ですが、地域の人々のためにも、早期解決を心からお祈りします。
a1831 (40代男性) 1985年9月15日


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