祥雲寺

お施餓鬼の思い出

八月二十日に祥雲寺ではお施餓鬼が行われます。毎年は母に連れられ訪れる理由でもあるこの行事について、いくつかに分けて書いていこうと思います。

 

其の一。お迎えする道はきれいに

夏の終わり、山の木は繁りつつも葉を落とします。そこで、小学生の私に下された指令は本道前の道の掃き掃除、使うのは竹箒。敷き詰めた玉砂利をきれいにならしつつ、落ち葉だけをかき集めるには一番適した箒です。が、子供サイズなどないその箒は大体私と同じくらい、軽いのが救い。今思えばそんなに大きなものではないけれど、子供の私にはずいぶん大きな箒に見えた。伯母さんや母はうまい具合に柄を支えてざっざっと落ち葉をかき集めていくのだが、私はと言えば見よう見まねをするものの、始めは要領をつかめずちまちまとしか集められませんでした。時々、映画やテレビで小坊主さんが庭掃きをしているシーンが出てくると、今でも、夏なのにひんやりとしていた竹箒の柄の感触を思い出します。その後、小学校高学年にぐんと背が伸び、竹箒をうまく扱えるようになって庭掃除を自分ひとりに任された時は、嬉しかったのをよく覚えています。

 

其の二。眠る場所もきれいに。

お掃除をする場所は、参道だけではありません、墓地のお掃除もします。小さな墓地が本堂の前と八幡様の参道脇に分かれています。墓石に積もる葉っぱを払い、お供えされた花も傷んだものは除きます。水子様は特に念入りにお手入れ。今思えば当事は「普通のお墓と違うのだろう?」と、思っていました。怖かったのは八幡様へ向かう参道脇、崖沿いの墓地のお掃除。本堂前と違って年季の入ったお墓が多いのと、崖の上からも木が繁っているので昼なのになんとなく薄暗い、しかも本堂前の墓地でひと通りレクチャーは受けているのでここからは一人です。忘れられないのが一番奥、墓石が途切れた先にある、崖に取り付けられた古くて頑丈そうな金属製の扉。ちょうど崖に横穴を掘って蓋をするように付いていて、近寄り難い雰囲気が漂っています。ここは歴代の住職が納められる場所で、今は住職だった伯父もここに眠っています。(住職の家族は同じ敷地の別の墓に入ります)当時、まだ、墓石の下が開いて骨壷を納める場所だと知らなかった私には、扉の向こうの事実は衝撃でした。

 

其の三。みんなで夜なべ。

お施餓鬼では、檀家の方に新しいお卒塔婆を渡します。伯母と従兄が夜になると一枚一枚書いていました。あのお卒塔婆の先頭に書かれた呪文のような文字が、梵字だと知るのは中学に上がってから位の事ですが、どう見ても漢字とは違うその不思議な文字を、筆ですらすら書くのを見ているのが好きでした。それが部屋中にぐるっと乾かすために置かれていきます。私はと言えば八月後半と言えば夏休みも終りにかかっていて、お卒塔婆を書いている横で夏休みの読書感想文の本を読んでいるのが常で、時間が遅くなってくるとやっぱりうとうとしてきます。先に寝ていいよと言われるのですが、お布団を敷かせてもらう部屋からは昼間にお掃除した墓場が見えるので、一人で行くのが怖く、母が手伝いを終えるのを待って粘っていました。朝は目覚し時計いらず、本堂から朝のお経を上げるのが聞こえてくるのが合図です。そして、今日の今日まで、私は従兄と伯母が眠っているのを見たことがありません。

 

其の四。精進揚げ。

 お施餓鬼の日に集まるお坊さんに出すお料理も手作りします。お蕎麦だけはお蕎麦屋さんに頼むのですが、お蕎麦につける野菜のてんぷらはもちろん手作り。かぼちゃ(黄色)、シシトウかピーマン(緑)、にんじん(赤)、ごぼう(白)、しいたけ(黒)、野菜だけで五色を揃えます。お皿にどんな風に盛るのかも、伯母さんは小さなスケッチブックに絵で描いて、お膳全体の彩り、お皿それぞれの彩りを考えます。いつも家ではお皿にてんぷらを盛る事しか私は、初めていわゆるお店で出てくるような綺麗なてんぷらの盛り方、人をもてなすための料理の盛り方の基本を知りました。ちなみにてんぷらは丸いしいたけを枕にして、他のものを立て掛けるように盛ります。ちょうど正面から見ると三角形に見えます。また、夏という季節柄かもしれませんが野菜の色がとても綺麗だったのを覚えています。

 

其の五。もどき料理

 精進料理の中に、「もどき料理」と言われるものがあります。それを教わったのも、お施餓鬼の準備をしていた台所での事です。それまで私の中で「がんもどき」は「おでんに入っているがんも」で、「雁・もどき」という考えは一切無かったので、夏の最中にがんもどきを作るが不思議でなりませんでした。なにより、がんもどきを台所で作ることが出来るというのが驚きでした。材料は、豆腐と山芋、ひじき、人参、枝豆。すり鉢で豆腐と摩った山芋を擂り粉木で混ぜるのが私の役目です。そこに伯母さんがみじん切りにした人参、枝豆などが入ります。それを油で揚げたのが、がんもどき。揚げたてはたしかに見た目が鳥のから揚げに似ています。味は、鳥とは似ていませんが、煮びたしにする前の揚げたてのがんもどきは、自分がそれまで食べていたおでんのがんもどきとは違うものでした(柔らかいけどきちんと歯ごたえがあります)。※子供心に印象に残った材料のみ書き出しているので正確なレシピではありません。

 

其の六。お施餓鬼の受付。

 小学校高学年頃、ひと通り人の名前に使われる漢字が読めるようになってからは、お卒塔婆を渡す受付もするようになりました。受付に必要なのは二名、表に書かれた名前にチェックを入れる人、お卒塔婆を渡す人。私がやっていたのは名前のチェックの方です。子供の私は白いブラウスにスカート、一緒に受付をやる従姉はきちんとした着物(訪問着に類する物)を着ていました。真夏に汗も見せず着物を一人で着こなす従姉は子供ながらに憧れでした。私はいらした檀家の方から名前を聞いてチェックを入れていくのですが、時々、名前を複数言う方、またはその逆の方がいる事、名前と性別が一致しない事に少し戸惑いました。初めて受付をした時は、五十音順とは言え聞いた名前にチェックを入れるのが精一杯で、それが来た方の名前ではなくお墓に入っている方の名前だとは分からなかったからです。名前に「古さ」のようなものを感じなかった事が理由だと思います。むしろ印象的な美しい名前を今でも覚えているくらいです。

 

其の七。お坊さんの行列と声。

 受付を片付けて、本堂の隣の控えで待っていると、集まったお坊さんたちの読経が始まります。お坊様の控えの間から本堂までちょうどと通れるようになっていて、ゆっくりと読経をしながら本堂へ入っていきます。伯父を先頭にして、総勢何名か正確には覚えていないのですが、従兄を含めて15名くらい目の前を通っていきます。お坊さんの恰好をした伯父と従兄は私の知っている、いわゆる伯父さん・従兄ではなくて「お坊さん」なんだなと、しみじみ思いました。それにしても、お坊さんの声は子供心にいい声で、起きていなければ、と思いつつ途中で船を漕いでしまうのが常でした。歌う人の声とも、役者さんの声とも、アナウンサーの声ともまた違う、読経の時のいい声。眠ってしまうというのは、その声にものすごく安らいでしまうからです。

 

其の八。集う場所としての「寺」

読経が終わると、本堂では檀家の方が、お坊様はお坊様の控え室でそれぞれお食事会が始まります。お蕎麦屋さんが勝手口の机にざる蕎麦を配達してくれます。本堂は檀家の方が自主的に座布団の位置を変えて、長机も出し手くれます。そこにお蕎麦と飲み物を運んで行きます。お坊様の部屋ではお坊様たちが積もる話をしています。読経をしている時と違って畏まった雰囲気ではありませんが、子供の私には話している内容はちんぷんかんぷんでした。本堂でも檀家の方同士がそれぞれ話しをしていて、読経しか聞こえなかった静けさとはまた違った雰囲気になっていました。各自家で行うお盆とは違って、お施餓鬼は寺に人が集まるので、お坊様はお坊様の、檀家さんは檀家さんの一つの情報交換の場になっていたのかなと、今では思います。そして、日が暮れる前、お施餓鬼の片付けが終わって、がらんとした本堂の雨戸を閉めていると、今日はここに一杯人がいたんだなあ、としみじみしている所にカナカナの声が聞こえてきて「ああ、宿題終わらせないと」と思うまでが私の中で「お施餓鬼」です。


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