源覚寺

えんま通り商店街

都営三田線春日駅A5出口を出て、目の前の信号を左折すると、こんにゃくえんまの門前の商店街に入ります。私が行ったときは七夕飾りと、「えんま通り商店街」と書かれたイラスト入りの旗が通りの両側を彩っていて、昭和の面影が残る商店街に一層の風情を加えていました。
商店街を少し歩くと、こんにゃくえんま前の交差点に差し掛かります。歩道には「小石川寺町散歩」と書かれた案内図があり、周辺にお寺が多いことがうかがえます。
交差点を渡ると、源覚寺に到着です。「こんにゃくゑんま」と書かれた門が、参拝客を出迎えています。
ここまで歩いてみて、こんにゃくえんまが地域になじみ、人々に親しまれている様子が見て取れました。

 

第二次大戦の爪痕

門を入ってすぐ左側に、お百度石があります。1850年建立と古いですが、新しい花が供えられ、きちんと手入れされていることから、今でもお百度参りをする人がそれなりにいることがうかがえます。
さらに進むと、正面に閻魔堂、右側につくばいと鐘があります。私は閻魔堂に行くのを後回しにして、鐘から見ることにしました。
鐘は「汎太平洋の鐘」という名前が付けられています。解説によると、この鐘は第二次世界大戦でサイパン島に渡り、その後消息不明となりましたが、1965年にアメリカ・テキサス州で発見されて1974年に源覚寺へ戻ってきたそうです。一見するとごく普通にあるお寺の鐘ですが、実に数奇な運命をたどったものだと感心しました。
鐘の周辺には、戦没者慰霊の石碑や仏像があります。これを見て私は、戦争の被害の甚大さを改めて認識させられました。東京23区内には、第二次大戦の爪痕を残している寺社が少なからずあるものです。

 

塩地蔵に健康祈願?

次に、毘沙門天堂と塩地蔵尊を回りました。
毘沙門天堂は一見すると何の変哲もなさそうですが、供え物がたくさんあるうえによく手入れされています。ちょっとしたお参りによさそうな感じがしました。
次に行ったのは塩地蔵尊です。2体の地蔵像がまっ白な塩で覆われていて、顔や形がわからなくなっています。地蔵の足元にも山のように塩が積もっていました。何ともユニークなお地蔵様です。「よくこれだけの塩が集まったものだなあ」と感心すると同時に、「健康祈願といっても、こんなに塩があったらかえって健康に悪いのではないか。いや、そうではなくて塩分の取り過ぎを戒めるといった意味合いもあるのか」と余計なことも考えてしまいました。

 

閻魔堂

塩地蔵尊をお参りした後、ようやく閻魔堂へ向かうこととしました。途中に絵馬納め所があって、こんにゃくえんま(片目の閻魔王)が描かれた絵馬がたくさん懸けられていました。いかにも源覚寺らしい光景です。
閻魔堂は、こんにゃくえんまと呼ばれる片目の閻魔王坐像が安置されているだけあって、源覚寺の一番の見どころらしい風格が備わっています。私はお決まりの通りに賽銭を箱に投げ入れて、鈴を鳴らし、お祈りしました。
そのとき、賽銭箱の奥にたくさんのこんにゃくと、こんにゃく芋があることに気づきました。こんにゃくは参拝客が供えたものです。その中にセブンアンドアイのPB商品のこんにゃくがありました。古いお寺にPB商品を供えるあたりに一種のミスマッチのようなものを感じて、思わず苦笑してしまいました。
こんにゃく芋の実物を見たのは、今回が初めてでした。見た目がサトイモに似ていて、大きさはメロンくらいです。この芋がプルプルした食感のこんにゃくになるとは、見た目からは想像がつきにくい感じがします。

 

参拝の後

参拝を終えた後は、東京メトロ後楽園駅へ向かって帰途につきました。
駅への途中に、旧町名案内の立札がありました。文京区内には至る所に旧町名案内があり、読んでみるとなかなか興味深いものがあります。案内によると、後楽園駅周辺の一帯は、春日局にちなんで「春日町」と呼ばれていたそうです。旧春日町は現在の文京区春日とは異なる場所なので、読んでいてちょっとややこしい感じがしました。とはいえ、町がたどった歴史を知ることはそれ自体が面白いし、文京区の旧町名案内は是非とも後世に伝えていってほしいと思います。
道すがら振り返ってみると、源覚寺はビルの谷間にある異空間といった趣があります。お寺の周辺にはビルやマンションといった、近代的な高い建物がたくさんあるのですが、その間にぽっかりと、昔ながらの風情を色濃く残す空間があるといった具合です。お寺そのものの規模はそれほど大きいとはいえませんが、たくさんの見どころが凝縮されているような印象を受けました。