書こうと思うことは、はっきりしているにしても、
記憶の届かぬ、あの頃のこと。
小学校に上がったばかりのことだから、
1950年生まれの私は、昭和なら25年、1956年のことか。
もうすでに、60年が過ぎ去っている。
しかし今の世の中は有りがたい。
青森の津軽地方に生まれ、物心付いたのが青森市の相馬町。
あの頃は、のんびりとした砂浜が続いて、との思い出。
まだ青森に住まいして、何かの折に訪ねてみれば、
大きな船も着くのでしょう、立派な岸壁で、
あの頃の思い出は何処へやら。
ことほどさように、時の過ぎ行くに、戸は立てられず。
初詣、あの神社も何処へやら。
パソコンを開けば、地図も出る。
青森を離れ16年ほど。でも、見いる内、思い出が心に浮かびくる。
有りがたい。
神社の名称、住所を確定しようと、大よその見当はつくにしても、
調べ直す、便利な世の中だ。
頼りは、町名の長島だけ。育ての親の実家もある故覚えてた。
幾度かお邪魔したこともある。私のアパートからは一筋向こう、西の方。
北から南にのびる120号線、柳町通り。
とっこせば、子供の小さな世界の外のこと。
独りでは、よう行かん。
何とか辿り着いた、廣田神社。地図の上。
神社の前、そのままに北へ行けば、丁字路で奥羽街道、4号線にぶつかる。
裁判所前の信号がある。
そう、アパートからは、柳町通りを挟み、少し西に行き、北へまた。
直線では500メーターほど。
確かに、小さな世界のこと。
ちなみに、北の境界は柳町通りと交差する旧線路通りだ。
東に行くほど右上がり。103号線、観光通りと交差する。
少し下がれば、私の記憶では、あの頃は観光通りに面してたよな、
4年生の途中まで通った浦町小学校、地図で見れば奥まってる。
木造の建物、建て替えられて場所も変わったのか。
隣り合わせの中央高校、女子高も今は無い。郊外に引っ込んだよな。
南側には大きな公園、中央西公園がある。
そして、またまた南側に、公園に面して、通りの名は知らないが、
観光通りと交差して、中央二丁目の信号がある通り。
そのままに、西に進めば中央三丁目の信号があるのだけれど。
過ぎれば、北側に今は、ハローワークが。
アパートから小学校へ通う道。
そして、なお進めば柳町通りにぶつかる。
ぶつかる前、一本、筋を東へ戻れば、南角に思い出のアパートが。
神社との地理関係、ここからの直線で。
名前は、横山アパートと記憶してるが、町名も横山町だったはず。
今は信号と同じで町名は中央みたい。
アパートの名も変わってて場所に間違いなければ、今は坂本アパート。
その頃は大屋根の下、一部屋に二間の土間を挟んで向かい合わせ。
10部屋までは無かったと思うけれど、その倍が。
これも、小さな世界のこと。仲良しがいて、みんなが友達で。懐かしい。
あっ、下の、南の境界は、今は青い森鉄道の線路が通る。東に行きしだい、
南にどんどん下がる。旧線路通りが、元のもと、
東北本線が奥に引っ込み、新幹線の加減で、今は、青い森鉄道。
柳町通りも観光通りも交差するはず。
ひしゃげた台形のよな形。本当に、小さな世界のこと。
上の一辺、旧線路通りが500mほどか。
下の一辺は、青い森鉄道があまりに右下がり故、柳町通りとの交差のままを、
東に水平に近くのばせば、観光通りで勝田二丁目の信号にぶつかる通り。
名のない通りだけれど、底辺が600mほどだ。
西は、柳町通りで300m足らず。東が観光通りで400mだ。
台形らしくなった。
そうそう、廣田神社のこと。初詣にまつわる、吉凶ない交ぜの思い出のこと。
思い出が途切れそを、たぐり寄せる。
よく思うのだけれど、父親と言えば、常に偉い存在で在ったのだけれど、
も一つ、考えてしまうと、
私が6歳の時は、よく25の時の子供と言ってたのだから、
じゃあ、あなたは30過ぎの若者だったよな。
ただ自分で自分の道を切り開いてた来た人ではありました。
私はと言えば、子供だったし子供を育てたから分かること。
子供が子供を育ててた。もちろん、私だけの感慨だけれど。
そんなこんなの子供心のお話しです。
弟は、まだ北海道にいて、ばあちゃんたちと。いろいろ事情の有る家庭。
帰ってないから、父と育ての母と私の三人家族。
思い浮かぶ記憶の場面がいくつかある。
まず最初が、年越し前の夜の内のこと。
暗くなってたと思うけれど、
何時頃かは分からないけれど、子供に合わせての年越しの夕食は過ぎての頃のはず。
30過ぎの立派な父が唐突に、言い出した。
初詣に行こう。もちろん、母親抜きで。
3人一緒に行ってれば、お話しにはならなかったし、記憶にも残らないはず。
雪国、クリスマスが過ぎれば、根雪になる。でもまだそんなにかさは無い。
歩道は踏み固められてるし。子供でも大丈夫だったと思うけれど。
空は暗いけれど、雪あかり、思いの外に歩き良かったよな記憶がよみがえる。
そして、
神社のかがり火の加減でしょうか、広い境内はほの明るく、
本殿のよな大きな建物があり、人々はそんなにはと。うろ覚えです。
多分、父親が子供のことを考えてくれてれば、初詣には早い時間。
それでも、寒い冬の夜、私が行きたいとお願いするとは思えないし、
父の言うことは絶対で、眠いのを我慢してのこと、記憶が間をおく。
父の背で居眠ってたのかも知れない。
急にびっくりするよな一場面。
あの頃は、貸間なんて当たり前。私もアパートの前には貸間での生活の思い出がある。
貸間にはびっくりしないけれど、
綺麗なおばさんが、暖かいミルクを飲みなさいなんて、言ってくれて、
思えば遅い時間のはず、寝てたのか、寝巻に羽織を羽織ったなり。
急ぎたたんだ布団が一部屋の部屋の隅、
父は悦にいってた、みたいな感じでした。子供心に嫌な予感が、何んて考え過ぎか。
まっ、ここまでは吉と言えるかは、定かではありませんが、まあまあのお話し。
ところが、急転する、記憶のひとかけら。
また、父の背で寝入ってたやら、記憶は無く、大晦日が過ぎ、明ければ正月元旦で、
思い浮かぶひとかけらは、修羅場です。
子供に、そんなとこ見せんなよ、って言いたくなるよなもん。
まずは、私に言葉巧みに質す母がいたのでしょう。帰りの遅いを見計らい、
何で、そんなに遅くなったの、どこかに寄ってたの。
なさぬ仲、母には逆らえず言ってしまったのでしょう、昨夜の秘密。
父への義理立てもならず、子供ながらにつらい立場です。
言質を取った母と父が相対し、中に挟んで洗面器、その上にはまな板が、
父の右手には包丁。謝りの言葉だけでは足りず、指を詰める。となったやら。
やくざじゃあるまいし。
まっ、一応二人は大人。
話しが大きくなり過ぎて、母が折れたやら、先っぽだけにとなったよですが、
すごい血が、まな板の上、洗面器の底、たまってたよな記憶が。
親の気づかいか、
止血薬を買いに行かされ、薬屋でのやり取りの記憶はないのですが、
正月元旦、今は知らないけれど、あの頃は開いてる店があったやら、
多分、行先は親に教えられてのことでしょう。
大通り、奥州街道、4号線まで出たはず。私にしては小さい世界の外のこと。
大冒険だったよな気がします。
帰りの道すがら、柳町通りの記憶が浮かぶ。
雪道を歩く私がいて、とことこ、とことこと。何を考えてか。
小さな茶色の瓶で、紙が貼ってて、下の方に価格があったよで、爪の先でこすってる。
おつりを誤魔化す、私がいたのでしょう。
その記憶があればこそ、
嘘を嫌う私が、他人にも求める、私がいるのでしょうか。
そこで終わる思い出。
そんなこんなの思い出のこと。
初詣を挟んでの二日がかりの夢の中でのようなこと。
ご利益なんて、どこかに飛んで行って、神に見放され、
その後の人生は、そう、あなたが思い描くようなものですよ。
そんな、私の人生のひとこまのこと。