木曽三社神社

利根川左岸に広がる台地の合間の谷沿いにあり、鳥居をくぐって参道を進むと、めずらしいことに下りの階段があって、小川を越えたところに社殿が建っている。鳥居から下って社殿にするのは、上野国一の宮の貫前神社(富岡市)を彷彿とさせる。木々に囲まれ緑深く、水音が小さく響く境内はとても静かで落ち着いた雰囲気がする。右手奥には「湧玉」と呼ばれる湧水があり、ここから流れ出た清冽な水が小川となって境内を流れ、途中の参道の手前で小さな滝となる。地元ではこの神社を木曽神社とも、瀧の宮とも呼んでいる。綺麗なわき水だが、水質検査の結果によると飲用はできないとのこと。この水場にはセキショウ群落を中心とする植物群があり、群馬県環境保全地域にも指定されている。境内にはいつの頃からかクレソンも自生している。小川の先は池となっており、その畔の散策も静かで心安まるものだ。  木曽三社神社の由来は社伝によれば、源氏の木曽義仲が近江で討たれた後、今井・ 高梨・町田・小野沢らの義仲の遺臣たちが、義仲が尊崇していた信濃国の岡田神社・沙田神社・阿礼神社の三社をこの地に勧請したのがはじまりと言う。拝殿の幕には義仲ゆかりのの笹竜胆の紋が染められている。関東管領の上杉氏や、白井城主の長尾氏、前橋城主などの崇敬を受け、明治時代には県社に列せられ、皇室の御参詣や幣帛等の御進納もあった。社殿は寛政元年に火災にあい、5年後に再建、その後明治20年代に大改修をして現在に至る。  大河ドラマ「花燃ゆ」で有名な群馬県令・楫取素彦の歌碑もある。「植えし木も 神のちぎりや 深からん 木曽の山路の 苗木なりせば」という歌だ。明治31年、貞宮多喜子内親王の名義で木曽檜を神社に下賜されたとき、苗木に添えたもの。病弱な内親王の健康と成長を願ったのだが、その祈りも虚しくわずか二歳で内親王はこの世を去ってしまう。このとき植えた檜も今は枯れてしまったが、歌碑だけは境内の目立つ場所に残っている。自然石を使った歌碑でぱっと見た感じでは判りづらいが、一文字ずつ指でなぞると読めてくる。
うぐぅ (50代男性) 2016年の11月末


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