徳融寺

山号

豊成山

寺号

徳融寺

宗派

融通念仏宗

本尊

阿弥陀如来

住所

奈良市鳴川町25

札所等

大和北部八十八ヶ所霊場札所 第4番

コメント


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徳融寺記事一覧

徳融寺は、奈良市の奈良町にあるお寺です。周囲には多くのお寺や沢山のショップやレストランがあります。そんな徳融寺の最寄り駅は、近鉄奈良線の近鉄奈良駅とJR奈良駅の二つがあります。どちらから歩いても15分位の距離で、便利な位置です。もう一つ、JRのまほろば線の京終(きょうばて)駅からは歩いて130mほどの距離なので、たまたまそちらの線に乗っていたら、京終駅から歩いてもいいでしょう。近鉄奈良駅は、京都方...

徳融寺は、奈良の中心ともいえる奈良町にあるお寺です。中将姫にゆかりのお寺としても知られています。山号は豊成山と言い、宗旨は融通念仏宗となります。この融通念仏宗とは、平安時代の僧である良忍上人の創唱で、自他の念仏が融通して一遍の念仏にも億百万遍の功徳が籠るという事を説いた教えだという事です。俗に「大念仏」とも言われて、河内大和を中心として畿内に広まったとされます。そして、大和北部八十八ヶ所霊場の第4...

本堂は寛文7年(1667年)に休岸上人によって再建されたとの事で、奈良県の重要文化財の指定を受けています。徳融寺の御本尊は木造阿弥陀如来立像ですが、この像は鎌倉時代の作だといわれています。何ともともとは、あの北条政子が念持仏としていたものという事です。鎌倉時代の作と言うだけで、ずいぶんと由緒のあるものという感じがしますが、源頼朝の妻であった政子が持っていたものとは!他にも平安時代の子安観音像や薬師...

もともとこのお寺があった平城京の下京、六坊大路にあたる位置にあり、藤原不比等の孫である右大臣であった藤原(横凪)豊成の邸があった跡という事です。豊成の娘であるのが中将姫ですが、折口信夫の小説である「死者の書」に書かれている中将姫は、この地で生まれ育ち、後に継母によって折檻されたといわれています。その中将姫ゆかりの「虚空塚」や「雪責の末」などが徳融寺の敷地内にあるとのことです。そして、お寺の墓地には...

徳融寺には本堂以外にも色々な建物がありますが、例えば市の文化財となっている毘沙門堂は寛永9年の建築です。その他にも地蔵堂や方丈、鐘楼、元本堂であった庫裡は慶長16年に建てられました。そして観音堂には平安初期の作である子安観音像がお祀りされています。幕末の頃には観音様の子育て信仰にあやかって、実はこのお寺に寺子屋が開かれたそうです。その後明5年の学制で「魁化舎第三番小学」と改まり、小学校としても機能...

徳融寺の敷地に入ると、すぐに目につくのがお寺の梵鐘です。この梵鐘は、もともと寛永年間に作られたものを使っていましたが、明治15年に徳融寺で奈良県再設置運動懇談会が再々催され、明治26年(1893年)に置県運動が取り持つ形で、この梵鐘が改鋳されたとの事です。梵鐘の改鋳一つとっても、ずいぶんと大きな動きがあったのですね。梵鐘の縦帯部(じゅうたいぶ)には檀家各位の他、県知事や政財界、そして北和自由党に立...

梵鐘のある鐘楼堂の下に、一つの歌碑がありました。見ると「保田興重郎歌碑」とあります。この保田興重郎は、昭和初期に活躍した文芸評論家・作家であり、保田家は奈良県の桜井市に家があり、融通念仏宗の檀家でもあるそうです。「けふも亦 (また)かくてむかしとなりならむ 己か山河 よしつみけるかも」と書かれた碑がありました。昭和56年10月4日に亡くなった保田興重郎は、昭和10年に亀井藤一郎氏らと共に「日本浪曼...

境内を歩いていると、もう一つ石碑がある事に気が付きました。こちらの石碑は中将姫ゆかりの石塔に関して触れられているようです。この徳融寺が、奈良時代の高官藤原豊成とその娘中将姫の旧蹟であったとの事ですが、その二人の供養塔ともいえる石塔が二基、観音堂の裏に立っています。実はこちらも、戦国時代に松永久秀が奈良山に多聞城を築く時、危うく運び出されてしまうところだったそうです。松永久秀は城の建築資材として、各...

徳融寺の境内には、また別の石碑がありました。この石碑はちょっと変わっていて、最初に見た時に「あれっ?」という感じがしたのです。石碑の片側には世界二聖といって釈迦とキリストが描かれています。キリストは十字架を背負っていて、釈迦と共に横に眠っています。そこへ一人のマント姿の男が割り込んでいるのですが、これは何を意味するのでしょうか。実は、このマント姿の男はこの石碑の建立者で、吉村長慶氏であるとの事です...

徳融寺を出て歩いていると、鳴川町の案内の乗った看板がありました。この辺りを鳴川町というそうですが、この近くには今は暗渠となっていますが、昔は川が流れていて蛙の鳴き声がにぎやかだったそうです。しかしその声が小塔院のお坊さん達の読経の声を妨げてしまうので、神呪を唱えて鳴かないようにしたそうです。後に蛙の声が聞こえなくなったので不鳴川(なかずがわ)と呼ぶようになったそうですが、それがいつの間にか、逆の意...