武井神社

武井神社についてまったく予備知識なくいきましたが、かなり楽しめました。お勧めのスポットと言っていいでしょう。

 

長野市大字長野東町 の武井神社は、善光寺への参道大門の交差点を右折してすぐ、左手に鳥居があります。道路を挟んで向かい側にちょっ蔵おいらん館なる観光施設がありますので、そちらのほうが探しやすいかもしれません。
武井神社は善光寺7社のひとつです。善光寺7社というくらいですから他に6社あるのですが、管理人が参拝したのは、武井神社だけです。それもなんというか、自ら望んで参拝したわけじゃありません。2018/12/16 善光寺への参拝の際、長野駅でお願いした観光案内所のボランティアガイドさんの案内で参拝しました。武井神社の前にいった西方寺も含め、たぶんガイドがなければ、武井神社には立ち寄ることはなかったと思います。

 

さて、観光ガイドさんが連れてきてくれた武井神社ですが、もちろん理由はあります。お目当ては、御柱祭行列図大絵馬(おんばしらさいぎょうれつずおおえま)です。
鳥居から拝殿まで真っ直ぐな石畳。右手の社務所にガイドさんが、拝観のお願いをしに行かれました。御柱祭行列図大絵馬は拝殿の中にあり、上がって見れる時と断られる時があるそうです。
結果は残念。なんと12月なのですが、今、七五三のために来ているからが拝殿の中でお待ちだそうです。まあこれはしかたないですよね、たまたまの観光のビジターより、氏子さんやら地元の信仰を寄せている方を優先するのは当然です。拝殿の正面、外からでも、ご挨拶をして帰りましょうか。と思って近づいていくと、OKが出ました。「七五三ですが、参列の予定の人の何人かがまだ到着していないので、待機中。今なら見れますよ。」といいます。きっと調整してくれたんでしょうね。
拝殿の中には、左の脇から入ります。中にはフォーマルな出で立ちのご夫婦がいらっしゃいます。きっと息子娘夫婦の子供、お孫さんが七五三で、彼ら彼女らが遅れているんでしょう。

 

御柱祭行列図大絵馬は四枚ありました。まずは万延元年(1860)雅孝によって描かれた縦119センチ、横350センチ、縁5センチ、板絵著色、横長の大額絵馬で、武井神社の拝殿の東壁最上部に掲げられています。弘化4年(1847)の善光寺大地震で武井神社拝殿は焼失したのですが、その13年後 拝殿が4日前に完成して遷宮祭。 参加は12町村、総勢500名の御柱行列の様子です。これが一番古く、文化財としての認定なども受けていますが、他にも三枚あります。御柱祭の様子を描いた大絵馬が、大正、昭和、そして平成と掲げられていました。

 

大正の御柱祭の大絵馬は、中央通り(善光寺参道)が拡張され、街並みが整備された後の大正15年(1926)の行列です。参加したのは16町で約500名。金砂子のすやり霞に包まれた大正ロマンあふれる御柱祭と言われます。。

 

昭和の絵馬は、大正15年以来61年ぶりに行われた昭和61年(1986)の御柱祭です。参加者は20町、総勢529名と記録されているとのことです。長野市がオリンピック招致に動き出したころです。描かれている行列の区切りはビルで単位です。

 

そして平成の絵馬。
現在は長野市中心部では、武井神社、湯福神社、水内大社、妻科神社の順番で、4社が7年ごとに交代で御柱祭を行っているそうですが、2010年に行われた武井神社の御柱祭行列を描いた大絵馬を奉納しようとなり、長野市武井神社や氏子町の枠を超えて市民有志が絵馬プロジェクトを立ち上げて、約半年間にわたる制作の末、平成の絵馬が出来上がったといいます。

 

四枚を順番にみると、その当時の行列の編成単位や、周囲の景色などの差が楽しめます。これは一度に見れるからこそ、感覚としてしっかりわかる違いですよね。時間をあけてみるとこうはいかなかったと思います。下手な美術館や博物館でみる絵巻などよりよっぽど楽しめました。武井神社は、お勧めしたいと思えるスポットです。

 

武井神社の後は参道へ戻り、ガイドさんと善光寺七福神の布袋様のふじや御本陣へ向かいました。

 

 


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