太平山三吉神社

梵天祭、生まれ故郷秋田では毎年1月17日に行われる。現在よりうんと雪深かった昭和30年から40年当時、秋田の小中学校では夏休みが短い分、冬休みは1月半ばまで続いた。そして子供たちはこの梵天祭が終わらないと冬休みが明けた気にならないのだ。 この祭は「梵天」と呼ばれる、まるできりたんぽを太く大きくしたような棒状の神輿(?)をお互いにぶつけながら、競い合いながら練り歩き、三吉神社に奉納されるお祭りである。神様を表す代物ならば、それをぶつけたり、突いたり、といった乱暴な扱いをしないものかもしれないが、当時はただ迫力あるシーンが心地よく感じた記憶がある。 我々子供達は手軽なサイズの梵天を、まるで刀のように振り回し、相手かまわずチャンバラごっこを挑んだものであった。「友達と仲良く」が信条の父親に、梵天を振り回して競い合うこの日だけは「負けるな、勝ってこい」と檄を飛ばされたのは、今にして思えば三吉神社の守護神が「力や勝負事の神様」であったことが由来していたと納得している。 我が家はこの練り歩きルートの通り道にあたったため、その日は朝から全くの他人が酒を持って上がり込み、大人達は一日中酒を飲んでいた。単にトイレを借りにくる人もいたが、大半は梵天について歩くギャラリー達。持参した酒が乏しくなると、上がり込んで振る舞い酒を飲み干し、挙句にストック酒を持ち帰る、そんなシーンが繰り返された。 さてご機嫌な大人達、お正月、お祭り、ときたら子供達が期待するのは、当然「お年玉」。両親だろうが他人だろうがお年玉をくれる大人は皆いい人。10円玉ひとつで何個も駄菓子が買えたあの頃、紙幣の手触りを堪能できる一年で唯一の日に、半分酩酊状態の大人達は誰もが大盤振る舞いであった。板垣退助のオンパレードに対し、子供ながらに何かお返しをと思って酒席についてジュースで乾杯!クレージーキャッツの歌まで披露したものである。 その年(昭和39年)、渇いた喉を潤そうと一気に飲んだお茶ですっかり寝込み、実はその後の記憶が無い。お茶だと思ったら、溶けた氷で薄茶色に見えたウィスキーだったのだ。目覚めの一声が「お年玉は?100円札は?」だったそうだが、夢でも見たんじゃないのの一言で片づけられて泣いた記憶がある。のちに母親が貯金してくれていたことが分かったが、そのせいか今でも「芝浜」を聴くと、苦笑いしながら頷く自分がいる。
濱っ虎 (60代男性) 昭和39年1月17日 まだ陽も高いはずの正午ころから始まり、気絶したのはおそらく夕方


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